前回までのエントリで、乗松雅休の生涯について概要をまとめました。
その最初の部分で、松山藩士 乗松忠次郎の長男と記載しました。
「松山藩士」という表現に関して補足が必要と思われるのでこのエントリでまとめたいと思います。
分限帳について
まず確認しておきたいポイントですが、江戸時代の伊予松山藩で書かれた分限帳(武士の名簿)に乗松姓はありません。
伊予松山藩の分限帳は伊予史談会によって以下の書籍にまとめられています*1。
松山藩役録 (伊予史談会双書 ; 第19集) | NDLサーチ | 国立国会図書館
伊予史談会『松山藩役録』は伊予松山藩の武士を調べるときには決定版と言ってよいものだと思います。江戸時代後期に伊予松山藩で武士だった人物は概ね*2ここに見つけることができます*3。
藩士という表現をみると普通は武士を想像すると思いますが、ここに名前がないことから、おそらく乗松忠次郎は一般に想像される武士とは少し違う立場だったことが推測されます。
乗松忠次郎の身分
答えを先に書いてしまうと、乗松忠次郎は卒族でした*4。
愛媛県立図書館所蔵の以下の資料に記載されています。請求記号も書いておきますので気になる方は見てみるとよいでしょう。
- 禄高帳(旧八藩) M05-8-2
- 卒調帳(旧松山藩) M05-7-39など、多数
どういうことでしょうか。歴史を紐解いておく必要があります。
卒族について
卒族は明治の初期に2年間だけ存在したレアな身分です。江戸時代、足軽などの下級武士だった人物は明治3年(もしくは明治2年12月?)に「卒」としてまとめられました。そのたった2年後の明治5年、卒族を廃止することとなり士族か平民に振り分けられます。
明治5年の卒族廃止の際、一代限りの人物は平民に、2〜3代以上の武士は士族に振り分けられたと言われています*5。
乗松雅休は前のエントリで触れた布教届の画像をよく見ると、署名欄(?)に、自ら「士族」と書いています。自ら名乗ったうえで間違えるとは思えないため、おそらく乗松忠次郎が士族に振り分けられたことはほぼ間違いないと考えます。そのため、少なくとも忠次郎の一代上は松山で下級武士をしていたことが予想されます。
なお、何度も触れている大野昭著『乗松雅休覚書』によると、乗松雅休の家系図は戦争で消失したそうです。
追記: 同名の別人疑惑を晴らすための資料
初めて卒調帳を見た時以来、同じ名前の人がいるだけで実は別人かもしれないという心配がありました。
今回卒調帳のなかに見落としていた文献をみつけ、本人だという確度が上がりましたので紹介します。
- 卒調帳(旧松山藩) 賦与返納利引金下渡人名簿並明細帳
- 愛媛県立図書館 請求記号: M05-7-68 096コマ
この文献において以下のように記載されています。
温泉郡南八坂町
乗松忠次郎
相続人 雅休
住所地、名前、相続人まで一致しているので、ほぼ間違いなく本人と見てよいでしょう。
更新履歴
- 2026/09/28 用語の修正、『賦与返納利引金下渡人名簿並明細帳』の引用を追加
*1:その他の分限帳については 伊予松山藩の分限帳まとめ にまとめました。
*2:
「松山藩御役録」には藩士の苗字があると思われるが、そこにあるのは全ての藩士か。また、士族が分家の際に... | レファレンス協同データベース
*3:例えば伊予松山藩出身で日本基督公会の最初の11人の一人である押川方義について調べると、実父 橋本宅次の名前は全文検索一発で発見できます。OCR技術の勝利。また、養父である押川方至の名前は見つけられずとも、押川姓は何度も出現していることはすぐに分かります。
*4:これは愛媛県立図書館にリファレンス依頼したとき住所と一緒に教えていただけたことです。
*5:卒族には世襲の人物と新規採用の人物がおり、この分類が士族・平民振り分けの基準に採用されたそうです。どういうことかというと、江戸時代末期、財政難にあった伊予松山藩は広義の武士の新規採用を抑制していました。とはいっても必要なときには各村に要請して人材確保をしたことがあったようです。こうして集められた人物は世襲ではないので一代限りの扱いとなります。