2026年から乗松雅休についての調査を行っています。調べた内容は誰かの役に立つかもしれないと思い、複数のブログ記事にまとめました。
記事の数が増えてきたので目次として一覧にしておきます。
- 調査の発端
- 乗松雅休の生涯
- 乗松雅休の基本情報
- 出身地 松山について
- キリスト教会の状況について
- 資料について
2026年から乗松雅休についての調査を行っています。調べた内容は誰かの役に立つかもしれないと思い、複数のブログ記事にまとめました。
記事の数が増えてきたので目次として一覧にしておきます。
「あなた方のほうがほんとうだ」
こういって乗松雅休は日本基督一致教会を飛び出しました。
そこに至るまでの経緯を理解するにはキリスト教会のおかれていた当時の状況を理解する必要があります。
本ブログで何度も引用している大野氏の文献はこの点についても詳細に分析していますが、キリスト教について詳しくない方にとっては専門用語のオンパレードで難しく感じられるかもしれません。
私自身はキリスト教の専門教育を受けたことはありませんが、キリスト教の信徒でもありますので、拙い理解ではありますがその範囲で明治期のキリスト教会の状況を書いておこうと思います*1。
日本基督一致教会は日本基督公会をその母体の一つとする日本の初期プロテスタント教会のグループです。
「教会」を名乗っているのに「教会のグループ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実体としてはグループです。
まず、日本基督一致教会は長老・改革派の宣教師の活動によって誕生した側面があります。その中でも特に長老派は、「教会」という言葉にこだわりをもっているようです。かいつまんで言うと「世界にあるのはたったひとつの教会である」という考えを大切にしています。
長老派の視点から言えば、一般の人が想像する「教会」というのは、実は世界にある「たったひとつの教会」のごく一部であるということになるでしょうか。大きな木から枝分かれして生えた枝のようなイメージです。
ですから、複数のいわゆる教会を束ねるグループにこそ「教会」という看板を掲げることになります。
乗松雅休が所属していた横浜海岸教会はこの日本基督一致教会に属する教会でした。そして、横浜海岸教会は日本最古のプロテスタント教会として有名です。
横浜海岸教会設立の経緯は『日本基督教会史』に詳しく書かれています。
先ほど「日本基督一致教会は長老・改革派の宣教師の活動によって誕生」と書いておきながらいきなり矛盾するようですが、横浜海岸教会はその設立の理念の中に「無教派主義」がありました。
無教派主義とは「キリスト教にもいろいろな考え方があるけれどもそういう違いを乗り越えて一つの教会を作っていこう」という理念のことをいいます。
詳細は省略しますが、キリスト教には恐ろしい数の教派(分派)があります。それぞれの教派がそれぞれの視点から議論を重ねてきました。それはよいことでもわるいことでもありました。無教派主義はそういう考えの違いが存在することは認めつつ、それを乗り越えることに価値を見出していたということができるでしょう。
『日本基督教会史』の無教派主義について書かれているところを読むと執筆陣の強い思いが伝わってきます*2。
又此の教會の設立に直接關係ありし外國傳道局は、米國長老敎會と米國改革敎會にして、此の新敎會はその組織に於て長老敎會の制度に則りたるも、此の派にぞくせず、又改革派にも附かず、敎會政治の點に於ては、外國の何れの敎派にもぞくせざる日本獨立自治の團體として建設したるものなり。その第二條例公會基礎に曰く、「我輩の公會は宗派に屬せず唯主耶蘇キリストの名に依りて建る所なれば、單に聖書を標準とし是を信じ是を勉る者は皆是キリストの僕我儕の兄弟なれば、會中の各員全世界の信を同して一家の親愛を盡すべし、是故に此會を基督公會と稱す」と。
この考えを持った人たちが日本基督一致教会の中核にいた、という事実は極めて重要です。
日本基督一致教会というグループは無教派主義の理想の実現に苦心し、うまく行かないことに悶え苦しみ続けたグループであることはいくら強調しても強調しすぎることはないのではないかと思います。
例を上げましょう。
この理想の実現のため、当時関西を中心に活動していた組合教会との合併を模索していた時期がありました。
組合教会と一致教会、この2つの教会は本当に全く異なる考えをもつグループです。しかし彼らは真剣に合併を模索しました。同じグループ内部に全く異なる考えを持つ人達がいて一緒に活動している、それが実現できれば無教派主義の理想は少なくとも部分的に達成されたことになります。
彼らは本気でした。しかしこの話は最終的に組合教会側からNGを出されて終わります。
合併失敗の原因についていろいろな分析はあり得ると思います。
私が『日本基督教会史』を読んだ印象をメモさせていただくとするなら、その原因は結局彼らは「無意識の長老改革」だった、という点にあるような気がします。
無教派主義と言いながら長老改革の伝統を前提に話をしてしまう。それは異なる伝統に生きる信徒からは違和感でしかありません。私はこの本を読みながらその傾向を感じずにはいられませんでした。それが組合教会側を不安にさせたのではないか、と個人的には思います。
一致教会が結成されようとした頃、さっそく事件が起こります。
当時彼らは新しいグループの信条(信じる内容をまとめた文書)を作ろうとしていました。もちろん無教派主義をベースとする寛容な内容です。
ところがグループの設立に関わった宣教師が内容に反対したのです。
『日本基督教会史』執筆陣の言葉で読んだほうが当時の雰囲気が掴めそうです。少し長いですが引用します(下線は本ブログの筆者がつけました)。
始め此の委員等は日本基督公會の憲法改正委員の手に成りし草案を基礎として調査を試みしが、その不備なる寧ろ米國ブレスビテリアンの憲法に因るの勝れるに若かざるを發見し、其の憲法を基礎となし、本邦基督公會の事情を參酌して取捨、選擇する所あり、數日を經て終に憲法の草案を編成し、又信仰の標準を選定し得て、之れを三ミツシヨンの協議會に提出したるに、多少の修正を附してその容るゝ所となり、爰にミツシヨンの共働的計畵成就したり。これ明治九年六月廿一日なりしが、之れが飜譯成りて後(一ケ年餘の後)改めて之れを日本基督公會及び長老教會に提出してその採否を討議せしめたり。否寧ろその採用を強いるの傾きありしが、兩公會の會議は双方とも議論百出殆んど草案を否決せん計りのすざましき形勢なりしも、南風競はず、軟論次第に勝を制し、漸くにして讀まとまり、終に之れを採用するに決しぬ。
思へらく協力ミツシヨンの代表する所の本國の教會が信奉する敎義の標準を日本に於て採用するは、歐米に於ける基督の同情信任を博するの基にして、然らずんば、合同教會は却て本國教會の不信任を招くの惧あり、宜しく適當の教義を選定して以て一致教會の信仰箇條とすべしと。因てドルト大會の敎典等を採用することに決し、日基・長老兩敎會の承認を經て敎會政治に規定したり。
つまりどういうことかというと、「無教派主義だと宣教師の母国の宣教団体に承認してもらえないので長老改革派の信条を強行採決した」ということです。猛反対の末長老改革派の信条が可決されてしまったことに不服だった押川方義はこのとき一致教会から分離します。
それでは『日本基督教会史』執筆陣の恨み節をどうぞ。
要するに此の合同一致教會の成立は、宣教々師主人となりて之れが一切の献立をなし、日本人は客その饗應にあづかりしが如く、その西洋式料理の教義や規則を丸呑にして消化し兼ねたる觀ある極めて不自然のものなりき。
p.71
これが禍根でなくて何でしょうか。このようにして無教派主義の理想は行き詰まりを見せていました。
乗松雅休が一致教会を飛び出したのと同じように、当時の一致教会では教会を飛び出して別のグループに移籍してしまう信徒が多発していました。
「クリスマス集会の司会者が前日に説き伏せられてクリスマス当日教会に来なかった」というような事件もあったようです*3。
一連の事件をリードしていたグループこそ、乗松雅休の移籍先であるプリマス・ブレザレン(現、キリスト同信会)でした。
プリマス・ブレザレンについてはまた別のエントリにまとめたいと思いますが、概要だけ書くと組織としての教会や牧師という制度を否定します。そして聖書を書いてあるとおりにそのまま理解しようとする運動でした。
実態として、プリマス・ブレザレンの教義はカルヴァン派の教義をベースとしていたそうです。
一致教会は無教派主義を理想としながらも実態は長老改革派でした。
プリマス・ブレザレンは教会組織を否定しながらもカルヴァン派の教義を掲げます。
似ていますよね。
さらに解説を付け加えるとすれば長老改革派はカルヴァン派の中にある一派です。
これは予想ですが、私はこの類似性が大量の信徒流出事件と無関係ではないのではないかと思います。
一致教会は無教派主義を掲げながらも実体としてうまく行っていません。理想とする教派を超えた「一致」が実現しない中、「そもそも教派的な教会っていうのが間違ってるんじゃない?聖書に書いてあることが全部だよ。そのまま受け入れれば教派なんていらないよ」などと囁かれたら、揺らぐ人もいるのではないでしょうか*4。
プリマス・ブレザレンは当時の一致教会のかゆいところにうまく手を届けたのではないか、というのが私の予想です。
*1:誤りに気づいた方がいらっしゃいましたらご指摘いただけるとありがたいです。
*2:p.24
*3:ブランドさんとその群れ : 明治期キリスト者の一群像 1 (同信新書)
*4: じゃあなんでカルヴァン派ベースの教義を掲げてるんですか?というのが(私は)気になっていますがその答えは今のところ見つけられていません
前回の記事で松本頼仁氏による乗松雅休伝の入手方法を書きました。
本記事ではキリスト同信会の資料を入手する方法を私が入手できた範囲で記載しようと思います。
なお、国会図書館デジタルコレクションで入手できるものは省略します*1。
国立国会図書館に行き、所蔵されている巻号の古いものから10年ちょっと分をざっと確認しました。見落としがある可能性があります。また、おそらくその後にも様々に言及されていると思いますが調査できていません。
あらゆる論評で言及されている文献です。585号は1965年11月号に相当します。
前半が乗松雅休に関する記事です。ページ数がシビアなので複写依頼なさる際の参考になりそうな情報を記載します。
p.10〜乗松恒明氏による『韓国訪問記 七色の輪』が掲載されていますが、著作権法の上限規定(全体の半分まで)により私は複写出来ませんでした。
692号はなにかの情報があるというよりも詩です。702号は大野氏の覚書の本が出版されたときの紹介が掲載されているのみです。
p.91〜100 に『乗松雅休』という章があります。
特段新しい情報はありませんが、前半が文献一覧になっておりそれが便利です。
なお、『乗松雅休』を含む章は 『III たかまり』というpartの中にあります。
『III たかまり』は p.72〜p109? までだと思われます*2。
首藤新蔵などの記述もあるようなので興味がある人は全体を読むとよいかもしれません。私は未読です。
松本頼仁氏が乗松雅休についての伝記を何度か連載していたことは乗松雅休について調べたことのある人であれば何度か目にしたことはあるでしょう。
大野昭著『乗松雅休覚書』によると、松本氏の執筆した連載は2種類あるとされています*1。
大野氏は
恐らく、両誌ともバックナンバーの入手は困難であろう。
と記載しています。
大野氏のこの記述は嬉しい方向に覆されました。本記事を書いている時点では、少なくとも『初穂』のバックナンバーを入手することが出来ました。*2。
本記事では雑誌『初穂』のバックナンバー入手方法を示します。
雑誌『初穂』は国立国会図書館に納本されていました。
そのため、国会図書館の遠隔複写を申請すればだれでもバックナンバーを入手できます。
複写申請のためには巻号および記事名情報が必要です。具体的な申請方法はご自身で調べていただくとして、これら必要情報はWebの画面には書かれていません。
そこで、私が申請した内容を以下に記載します。この通り申請していただければ入手可能と思います。
途中にイレギュラーな名前の変更がありますので注意が必要だと思われます。
また、10号11号が飛んでいますが、納本漏れではなく欠号だったようです。9号と12号の間は話がつながっているのでご安心ください。
本資料はマイクロフィッシュというフィルムのような媒体に記録されているものです。それを紙に印刷して複写することになるので複写費用が割高となります。
私が依頼した時点では、1枚あたり110円です。表紙、奥付も含めると31枚になりました。目次は表紙に印刷されています。
なお、1枚あたりの単価に加え、諸々の手数料がかかることになりますので費用はもう少しかかります。
前回の記事では松山城下の古地図情報を一覧にしてまとめました。
そこではまとめただけで力尽きてしまい分析までは踏み込めませんでした。
伊予松山城下における乗松雅休の住所として、現時点で以下の表記が確認出来ています。
このうち、北八坂町の住所は父 忠次郎の所有になっており、「同郡同町 乗松忠次郎」とあるため、実際の住居は別の場所であることがわかります。前後関係から言って同郡同町とは「温泉郡南八坂町」を指します。したがって、住居は南八坂96の方だったのでしょう。
以前にも書きましたが一般に番地と番戸には互換性がないことに注意が必要です。ただし、松山城下の場合は同じ数字だった可能性が高いと予想しています。試しに南八坂96番地の旧土地台帳を取得してみましたが別人の所有でした。
明治40年になっても南八坂96の住所を書いていることに引っかかるものがあります。わかりません。
前回一覧に書いたもののうち、1880年の松山市街図が番地を知るのに一番手っ取り早い資料になります。
現在の地図との位置関係を対応付けるのは今昔マップも役に立ちます。
北八坂4番地はおそらくこの近辺だと思います。八坂神社*2 の道を渡って斜向かい奥くらいでしょうか*3。
南八坂96番地はたぶん八坂公園かその向かいのゲストハウスのあるあたりかなと思います*4。
北八坂4番地がその後どうなったか知りたいと思い旧土地台帳を取得しました。
届いた住所は「唐人町裏 四番」でした。地番の場所は複雑に打ち消し線が書かれています。

本当にここが北八坂4番なんでしょうか。一番古い地目が「田」なんですが。もしここだとすると、宅地だったところが田んぼになって、また宅地に戻ったことになります。なんか変です。
なお、取得した旧土地台帳の所有者は別人になっています。旧土地台帳が整備されたのは明治20年前後です。ちょうどその頃乗松忠次郎が亡くなっており、雅休は横浜に移住しています。いずれにせよ旧土地台帳を整備した頃には土地を売っていたのではないかと思います。
最後に、南八坂の住所についてすこし深堀りしておきましょう。旧土地台帳によると、この住所は明治27年に95番地と合併しています。したがって、乗松雅休が羅馬書の翻訳を出版したとき、この住所は存在していません。
松山市がこの土地を購入したのはいつだったでしょうか?
なんと…読めません。

ぱっと見「明治66年」にしか見えませんがそんなわけがありません。
私の予想では「明治廿六(26)年」かな?という気がします。
読める人がいたら教えていただけると嬉しいです。
*1:請求番号1086_214
*2:八坂神社の地番が改定される前の住所は「松山市北八坂町字南八坂一番地の1」です。思わず頭を抱えました。
*3:観音寺と第三尋常小学校、八坂神社の対応をとるとこのあたりかなと思いました。厳密ではありません。
*4:旧土地台帳をとると、この住所は後日松山市の土地になっているので八坂公園の方が可能性高そうに思います
はじめの頃の記事で、乗松雅休の父忠次郎は松山市北八坂4番に土地を持っていた、と書きました。
それってどこなの?というのは松山市に土地勘のない私にとっては非常に難しい問題です。
それを解明するために一旦松山市の古地図情報をリンクとともにまとめておきたいと思います*1。
ほぼ時系列順に並べます。
頭に入れておくべき数字: ペリー来航=1853年 / 明治元年 = 1868年
愛媛県立図書館による江戸時代の地図まとめです。
史跡松山城跡保存活用計画 松山市公式ホームページ PCサイト
計画書第2章PDFの p.52 (PDFでいう30ページ目) に古地図の一覧があります。
松山城下が空襲で焼ける前の町並みを記録してくれています。
どのあたりにどんなお店があったか、どんな人物が住んでいたかを知ることが出来ます。
*1:一覧にまとめて力尽きたので地図を見たうえでの考察は別エントリにします
以前の記事で明治期における士族には江戸時代のいわゆる武士とは異なる下級武士も含まれるということをまとめました。
このページに伊予松山藩の分限帳一覧をまとめていたのですが、独立した記事にしたほうがわかりやすいと思われましたので改めて独立した記事としてまとめたいと思います。
なお、それぞれの分限帳には成立年代の西暦を併記しました。
参考までに、明治元年は1868年です*1。
とりあえずこれが決定版でしょう。目次より引用。
デジタルコレクションで読める書誌情報にリンクしましたが、最新版は第二版だそうです。
内容は伊予史談会『松山藩役録』と一部重複しています。
別文書と思われるものを太字にしました。
松山市史料集編集委員会 編『松山市史料集』第3巻 (近世編 2),松山市,1986.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9775553
掲載されているものは伊予史談会版の「乾光院殿御治世支配帳」とおそらく同一です。
当時の筆書なので素人目には読むのが難しいです。
上に書かなかったものとしては以下の文書が士族の名簿のようです。
卒帳帳・禄高帳については私も一部複写して見せていただきましたが筆書きでした。
タイトルにあるとおり、会津時代です。会津から同行してきた人物を知るにはよいでしょう。
https://www.digital.archives.go.jp/item/3088995
前述の公文書館所蔵の下級武士と思われる人物の禄高帳です。
人名は省略され人数のみになっています。
厳密には「掲載されている」というだけで士族かどうかはわかりません。
*1:私はいつもわからなくなります